04
2016

僕が死ぬということとビジュアルノベルゲームをつくることの関係性

CATEGORY考えてみた
おはようございます。ゆうひのぼるです。

まずはこのブログを読んでいただきありがとうございます。
このブログを読んでいただいている時は僕がこのブログを書いてから数年後か、はたまた数十年後かもしれませんが
このブログを読んでいるあなたにも何かしらの目標があり生きがいがあると思います。

その目標の成功を心から願っています。


唐突ですが、さきほどバイトの時間に死にたいと強く思いました。

悩みはある時は多いのですが死にたいと思うことはなかったので自分でも驚きました。
そして死にたいという気持ちがどうやら悲しみや悲壮、怒りとかの負の気持ちでなくて
嬉しく、安らぎのような気持ちになっていたので興味深かったので書かせてもらいます。

どうせ死ぬならばできるだけ楽に死にたいなと思ってバイトの休憩時間中にインターネットで調べたところ
首吊りは痛いだとか色々書いてありましたが目に付いたのは自殺を思いとどませる言葉や広告でした。

自分はこれを見た時に物事のつらさは当事者にしかわからないのに、家族を悲しませるから自殺はやめろとかいうのは
少し違うなと感じました。

せっかくならこういう場合はこうすればいいとかいう具体的方解決方法を書くべきだと思いました。
なぜならば自殺する人にとっては「死」とは絶望ではなくて希望なんです。

すべてのしがらみやつらさから解放される希望なんですよ。


ま、もちろん自殺する気もない人が自殺したいと思う人を理解することは到底不可能です。

僕は最初自殺するならば保険金でもかけて家族を楽にしてあげたいなと思ってわくわくしていましたが
調べると保険金は自殺した場合はお金がもらえない可能性があるようで
意図的な自殺とばれない自殺をする必要があります。

っていうかもちろんこのブログで自殺のすすめをしているわけではありません(笑

肝心なのは死の選択の自由があたえられているという点です。

今作っているビジュアルノベルが製作できるまでは死ねないなとも考えましたが
いつでも死ねるというのはなかなか解放された気分になります。

明日世界が終わると心がけても人は今までの自分を変えたり省みたりしないものです。
だって明日世界が終わるなら何を努力する必要があるんですか?
明日世界が終わるならば誰かに優しくする余裕が人に生まれると思いますか?

そういうことではなくて僕が思ったのは
今日いつでも死ねると真に自覚したならば日ごろの悩みやささいなしがらみから解放される
と思ったのです。

だっていつでも死ねるんですから。いつでも死ねる。それだけで大抵のことなんて許せますよ。
たいていの人間を愛することもできますし優しくもできます。

それほどに、真に自分が死ぬということを自覚しながら生きるということ実践している人間は少ないと思います。

なぜならば大抵の人は汗水流しながら働くというのが老いきるまで続くと思って自覚しているんですから
ゴールが遥か先にあるマラソンで延々走り続けなければいけないことがわかっているのですから

そりゃ道に転がっている小石にだって腹を立てるし脇を通り過ぎる別のランナーが憎くもなります。

けれど、あなたはいつでも死ねる。その選択の自由が与えられていてそれを自分で自覚しているならば
世界は違って見えるはずです。

正直最初は負の方の死の願望でした。

だけれど今は生の方の死の願望になっています(笑


死ぬときは人を愛して死にたいですしね。

それがもし今日ならば今日死んでもいいのなら僕はいつも以上に人を愛するかもしれません。
その人に意識がなくても自分がわかってあげればいいと大抵のことなんてどうでもいい許せばいいじゃないかと。

そんな気持ちになったとき何か体が軽くなったように感じました。

なんか死ぬとか死なないとか自分でも物騒なこと書いてるなと思いますが気持ちは100%本気です。
僕は人を愛して死にたいし、家族に本当に幸せになってほしい、僕とかかわるすべての人間にできるかぎりの敬意を払いたい。

自分があって世界があるのではなくて自分と世界は最初から繋がっていることを意識するべきだと思いました。

少し抽象的でわかりにくかったらごめんなさい。
心を言語化するのは難しいですね。

というかこんなこと書いてる時点で自分に酔っている気持ちもしますが
今の一瞬一瞬、この世界で生きることを楽しみたいと思います

そして今はできる限りビジュアルノベルゲームを作ることを念頭にしたいと思います。(笑


ゲームできるまで死ねんよ(笑

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